翻訳会社との関係、独立した個人の翻訳者としてのあり方

翻訳会社へのメッセージ

我々の翻訳に対する姿勢と翻訳会社との関係

我々にとって重要なお客様である翻訳会社とともにより良い翻訳を求めて

我々のようなイタリア語のフリーランス翻訳者にとって翻訳会社の存在は不可欠なものです。特に、翻訳会社は、個人ではできない市場の開拓をし、お客様と翻訳者を結ぶ重要な役割を果たしてくれています。よって最終ユーザーにより良いイタリア語翻訳を提供するために双方の協力は不可欠ですし、翻訳会社は我々の能力や専門性を正しく把握することが重要だと思います。以下は、これまで20年間、数多くの翻訳会社と一緒に仕事をしてきた経験から得られたいくつかの考察です。

難易度が高い翻訳とは?

訳の難易度は往々にして相対的なものです。多くの場合、科学技術文書や専門性の高い医学分野や特許などが高難易度カテゴリーに分類されます。もちろん高い専門性を必要とする場合、その分野の十分な知識がなければ難易度が高いのは当然のことです。

しかし時に、「平易」な分野に分類されている一般文書と呼ばれるものでも、専門性からくる難易度ではなくとも、内容や目的によっては、洗練された文体に整えたり、微妙な言葉のニュアンスを伝えなければならなかったりと、高い翻訳技術と作文能力が問われるといった点では、難易度の高い翻訳と位置付けることができると思っています。

そういう意味では、手紙やビジネスレターも、本意が行間に隠されていたり、遠まわしな表現になっていたりして、原文をそのまま訳文言語に直訳で置き換えた時、原文の意図が正確に伝わるかと言ったらそれほど単純ではないのです。またマーケティング素材などの翻訳も、キャッチコピー的な要素も必要となる場合があり、いかに商品を効果的にアピールできるかは、翻訳の質によっても左右されます。何度も何度も読み返しながら、それまで積み上げてきたイタリア語翻訳経験を駆使して仕上げていく、本当に時間のかかる作業になることが少なくなく、高難易度に分類されている分野のものより時間がかかることも多いのです。

よって翻訳の難易度のレベルとは、単純に分野で一括りに「平易」「難易」と分類できるものではなく、その翻訳に要する作業時間つまり労力の大きさに比例するというのが我々の考え方です。

特に日本の翻訳会社のサイトを見ると、料金が、難易度レベルに応じてランク付されており、ほとんどの翻訳会社で、ビジネス文書、メール、手紙などが、その内容の如何に関わらず、一番低いランクに設定されています。

ビジネス文書や手紙のご依頼を翻訳会社から受ける際、「平易」分野として最初から一番低い料金設定で依頼されることがありますが、まずは原稿の内容を拝見してから料金を見積もらせていただけるようお願いしています。

チェッカーの役割

訳を第三者のチェッカーに校正させる作業は、翻訳会社にとって品質管理上欠かせないものです(翻訳者自身も納品前にチェックはもちろんしますが、どうしても第三者のような客観的な見方は難しいものです)。しかしながら、しばしばこの校正作業において、チェッカーの言語能力や当該分野の知識不足が理由で、翻訳の品質を上げるのではなく、間違った修正がなされることが少なからずあります

無名の翻訳者

翻訳は方程式とは違う、いつもその答えは異なるからだ。

無名の翻訳者

また言語を扱う以上、数学のように答えはひとつではありません。構文的スタイルや用語選択に関してはどちらが正しいかの判断が難しい場合もあります。時には、訳抜けやスペルミスを見逃し、不要な同義語への置き換えに始終するチェッカーがいることも事実です。

社内チェッカーを持たない場合(日伊チェッカーを社内に抱えている翻訳会社は少ないのが実情です)、外部のチェッカーに依頼する必要があり、すべてのチェッカーの言語能力やプロとしての倫理感を把握することは難しいでしょう。だからこそ、時間も手間もお互いにかかりますが、チェッカーの修正を鵜呑みにせず、必ず翻訳者にフィードバックすることが重要だと感じています。

チェッカーも翻訳者同様、間違えることがあります。翻訳会社へのお願いは、チェッカーによる修正を盲目に信じ、そのまま最終成果物として納品せず、修正の是非を翻訳者に確認して欲しいのです。我々は正当な修正には正直かつ誠実に応じます。クロスチェックとプルーフリーディングに関するページにも目を通してみて下さい。

翻訳学校修了証か実務経験か

ロの翻訳者になる道は主に二つあります。大学や専門学校で言語や翻訳を専門的に学び、卒業後に翻訳者になる。もしくは、社会に出てから、実務で外国語を仕事の主要ツールとして用いた経験を経て、翻訳者の道を選ぶ。

重要なのは、どのルートで翻訳者になるのを選んだかではなく、どのように優秀な翻訳者になるのかということです。もちろん翻訳対象言語の正しい知識、十分な表現能力は必須ですが、経験から学ぶテクニックやこつなども必要です。これらはある程度時間をかけて経験する中で身につくものです。つまり、どちらのルートで翻訳者になったとしても、結果にそれほど違いはあるのでしょうか?大学や専門学校で翻訳を専門に学んだ翻訳者の方が、本当に優れているのでしょうか?これに関しては業界でも様々な意見があります。

ただ残念ながら、特に欧米の翻訳会社の中には、実績や経験よりも言語や翻訳の専門的な学歴を重視する傾向が強いようです。社会経験が長く、様々な応用分野の専門知識も豊かで、翻訳能力も高い翻訳者が正当に評価されず、大学を卒業したての言語専門学位を持つ翻訳者をより優れた翻訳者として優遇するのであれば、それはあまり賢い選択ではないような気がします。大学の中では、翻訳のテクニックは学べますが、産業翻訳を目指す以上、企業経験の中で生きた言語に触れる経験もとても重要だと考えるからです。

我々は翻訳を専門に学んだわけではありません。学校や専門学校の外国語教育を基礎に、国際企業経験の中でコミュニケーションツールとしても生きた言語を習得してきました。そして1997年からは、プロの翻訳・通訳者として経験と実績を積んできました。二人の経歴書もダウンロードできます。

直訳の是非

分我々は、この「直訳」を執拗に求める何社かの翻訳会社から、翻訳者失格の烙印を押されたであろうことは想像に難くありません。原因としては、イタリア語の知識がなくその言語特性が理解できない、または十分なイタリア語の知識を持たないプロ意識の低いチェッカーに判断を委ねた、といったことが考えられます。

これは、我々にとって最もやっかいで、フラストレーションのたまるテーマのひとつなのですが、特に日本の翻訳会社は、一言一句直訳されていないことを問題視する傾向が強く、文体的及び構文的規則を重んじるイタリア語の言語特性が理解できない場合、直訳が不適切な理由を理解してもらうことは至難の業なのです。

確かに文書の用途によっては、直訳も是とする場合もあります。例えば、文体よりも明確性を求める技術分野の仕様書などがそうです。ただ、一般的に直訳が過ぎると、その訳文を不自然で読みにくいものにするばかりか、翻訳者の技量の低さや、原文言語の理解不足(原文が十分に把握できないと直訳になりがち)、翻訳メモリーや自動翻訳に頼りすぎ、といった側面が露呈した訳文となってしまいます。

特に日本語から直接イタリア語に、または日本語から直訳した英語からイタリア語に訳出する場合、この直訳の罠に陥りやすくなります。それを避けるためには、イタリア語と言語的に近い言語から訳出する場合の数倍の努力と注意力を要するのです。Aliseo Japanではどのように日本語からイタリア語に翻訳しているのかを、品質管理のページで説明しています。

実は、内容を十分に理解し咀嚼して訳文として完成度の高い意訳をするより、直訳をした方が楽なのも事実ですし、昨今の価格競争にさらされている翻訳者にとって、量をこなすのが精一杯となり、できるだけ短時間で翻訳するには、直訳が一番手っ取り早いというのもまた事実です。

特に技術文書には直訳を求める傾向が強いですが、市場に出回っている多くの取扱説明書の中には、読む気を失わせるようなものも多くあります。それはあまりに直訳調で分かりにくく不自然な文体なので、説明書のはずが反対に混乱を招くような代物だからです。ですから技術文書ももう少し、ユーザーの読みやすさに配慮すべきではないでしょうか。

Aliseo Japanでは、クライアントの指示や用語指定は順守しながらも、文書の用途や読み手に応じ、直訳調ではなく、イタリア語の特性を重視した読みやすい翻訳を心がけています。

外来語の乱用

本に限らず、イタリアでも昨今、外来語の過剰な使用が目立ってきています。日本語やイタリア語に該当する言葉や概念がないため、外国語をカタカナ表記で取り入れるという場合のみならず、すでに対応する言葉や概念があるにもかかわらず、わざわざ外来語を使うのが流行りなのでしょうか。

今や外来語は日常生活に溢れています。この外来語好きの傾向に、歴史的、社会的理由付けをすることも可能でしょうが、こと近年に関しては、特にインターネットやメディアによる乱用が原因の一旦ではないでしょうか。確かに言葉は生き物ですので、時代とともに変化していきます。時代の移り変わりとともに、自然に文化や社会に溶け込んできた外来語も多く、それらはすでに外来語であることさえも気づかず日本語のように使用されています。ただここ数年は、単にカタカナ言葉の方がかっこよく聞こえるからという、少し危機感を抱かざるを得ない理由による「乱用」が見られます。

翻訳業界でもこのカタカナ語の乱用は例外ではありません。特に、ファッション関連やマーケティング分野の翻訳は、カタカナが占める割合が非常に高く、もちろん業界用語として市民権を得ているものもありますが、翻訳者があえてカタカナ語を選択しているという一面も否めないと思います。適切な対訳を吟味するより、そのままカタカナにした方が「イージー」で「クール」だからです。

翻訳という外国語を扱う仕事に従事する翻訳会社や翻訳者こそ、このような外来語の乱用傾向を助長するのではなく、言葉に対する高い意識を維持する必要があると考えています。

Aliseo Japanでは、業界専門用語などですでに一般的に使用されている外来語を除き、可能な限り、適切な対訳を用いるよう努めています。

海外在住翻訳者

は、長年外国に移住すると、自国の言葉を徐々に忘れ、母国語での会話や作文能力が衰えていくという話を聞いたことがあります。

これはそれぞれの生活環境や仕事、意図的な理由などにも寄るのでしょうが、現在では、インターネットの普及により、世界のどの国で暮らそうと、自国の新聞を母国語で読み、自国のテレビ番組を母国語で見て、スカイプなどで、家族や友人、クライアントと会話することもでき、時差を考慮する以外は、自国にいるのと変わらない時代です。ですから、「海外在住翻訳者は、生きた母国語に触れる機会が少ないため言語能力が衰える」という理由で、翻訳対象言語の国で生活する翻訳者を優先する翻訳会社がいまだにあるのは、まったく不思議なことです。

もちろん長年海外に暮らし、その国の言葉で日常生活を営み、仕事も家族や友人との会話も外国語のみで暮らしている場合、母国語で突然話したり、書いたりすることに難しさを感じたり、言葉が思い出せないこともあるでしょう。ただ、翻訳者として日々母国語に接し、インターネットの恩恵を受けて、母国語を目からも耳からも吸収できる環境にあれば、翻訳会社が危惧するような「劣化」は起こらないと考えます。それどころか、「イタリア在住」の「イタリア人」の「イタリア語」があやしくなってきているのを、インターネットの世界で日々多く目にします。また日本語への翻訳を依頼されるイタリア語原稿にも文法的な間違いを発見することが増えてきており、翻訳チェックの前に原稿チェックも必要でないかと思うことさえあります。

各翻訳者の言語能力ではなく、翻訳対象言語を母国語とする国に在住しているか否かで翻訳者を選択する翻訳会社の主張には、疑問を持たざるを得ません。

CATの使用

CAT(翻訳支援ソフト)の普及は年々進み、CAT 指定案件も増え続けています。翻訳者も複数のCATソフトを所有して使い分ける時代です。我々も主に2つのソフトを併用しています。CATソフトは、特に分量の多い技術・専門翻訳などにおける用語統一、作業効率向上、さらにはDTP作業の簡略化などといった多くの利点があります。

しかしながら、分量も統一用語の必要性も少ない案件にも一様にCAT使用を求める翻訳会社も少なくなく、不要に煩雑な作業を強いられる場合もあります。その理由として、翻訳品質の向上という本来の目的より、翻訳料金を下げるためのツールとして使用されている側面が否めません。「既存メモリーをできるだけ使用し新規翻訳を減らしたい」という事情は十分理解できますし、「メモリーで用語統一を図る」という前提も正しいです。ただその既存メモリーの用語が不完全かつ間違っている場合、翻訳の品質はどうなるでしょうか。

CATメモリーの品質に問題があることを指摘しても、一向に修正に応じない翻訳会社もある中で、CATは翻訳品質を上げるツールでなく下げるツールになっていることもあるのです。メモリーの定期的なメンテナンスは費用も時間もかかります。しかし翻訳会社としては必要な作業だと考えます。

Aliseo JapanではCAT(Dejavu 及び SDL Studio)を使用して翻訳することが多いです。翻訳会社からの使用指定がなくとも必要に応じて使用します。それは、長年かけて蓄積してきた辞書機能の使用や新規追加が目的であったり、レイアウトを維持する目的であったりします。ファイルを準備する作業に時間が取られ、時にソフトの不具合と格闘しながらも、CATは、翻訳効率やフォーマット品質を上げるのに有効なツールであることは間違いありません。

この翻訳会社へのメッセージページは、我々の翻訳に対する姿勢や考え方を提示し、翻訳会社の皆さんと一緒に、この業界の様々な問題点に意識を向けたいという意図で作成しました。

我々の翻訳に対する見方はもしかしたら多少「感傷的」に過ぎるのかもしれません。言語も含めすべてが均一化されていく文化的なグローバリゼーションの潮流に、押し流されないための手段として翻訳を捉える考え方は、多くの翻訳会社からは理解が得られないかもしれません。しかし翻訳会社が指揮者として、率先して翻訳者やクライアントを、あるべき方向に導いていって欲しいと願わずにはいられないのです。